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明治時代までの264年間続いた江戸幕府を開いた徳川家康公は、今の愛知県岡崎市に生まれた戦国時代の大名です。織田信長、豊臣秀吉と共に三英傑の一人に数えられました。初代江戸幕府の征夷大将軍にまで任命された家康公の生い立ちから晩年にいたるまでを、かいつまんで簡単にご紹介したいと思います!!
天文12年(1543年)に現在の愛知県岡崎市にある岡崎城にて誕生。幼名は竹千代。わずか6歳で駿府を治める今川家へ人質として差し出され幼少期を過ごす事となりました・・・。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に敗れるのを期に、再び岡崎城に戻り当主として再興を図り、勢力を広げていくこととなりました。
隣国の織田信長と同盟を結び、共に戦場に出向き、『信長の野望』である天下布武を支える大きな役割を果たすこととなります。しかし天正10年(1582年)に臣下の明智光秀が起こした本能寺の変にて信長は戦国の歴史から姿を消すことになります・・・。当時、信長に京都に招かれていた家康公は命からがら岡崎に戻ることになりますが、その時、我が身を捨てる覚悟で護衛したのが、徳川四天王の一人である井伊直政でした。
信長亡き後、家康公は一時は対峙するものの、信長の意思を継ぐ家臣の豊臣秀吉の天下統一を支えることとなります。そして小田原征伐を経て、秀吉から当時は現代とは違い未開の地である関東の地を任されました。それを期に江戸に居を構えることとなります。
病に伏した秀吉亡き後の慶長5年(1600年)に東軍西軍に分かれた天下分け目の戦いである、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を破り、100年以上も続いた戦乱の世を終結させました。徳川四天王の一人、井伊直政の抜け駆けにより開戦した関ヶ原の戦いでしたが、膠着状態が数時間と続く中、家康公が命じた有名な『問い鉄砲』により小早川秀秋が東軍に付くことで戦局は一気に東軍へ傾くこととなり勝負は決したと伝えられています。
幼少時は人質の身となりながらも、遂には関ヶ原の戦いで天下を手中とした徳川家康公。ただ唯一の気がかりが秀吉の子、豊臣秀頼の存在でした。嘗ての自分がそうであったように、いつの日か秀頼が力をつけ、天下の徳川を脅かすかもしれない。そう考えた家康は2つの大阪の陣を経て豊臣氏の影響力を無きものとするのでした。その後、全国を統制するための武家諸法度、そして一国一城令を制定するなど、264年間、続くこととなる江戸幕府の基盤を築いたのでした。
ここ数年、武将が残した手紙など直接的な歴史の一次書籍の新たなる発見もあり、従来では考えられなかった歴史的な考察や解釈が生まれています。あの『聖徳太子』が本当に実存したのかが話題になったことは記憶に新しいことでしょう。ここでは家康公に関わる色々な驚きのエピソードをご紹介したいと思います。
徳川家康公が天下を治めることが出来た最大の理由は何なのでしょう?誰よりも忍耐力に長けていた?人一倍の勉強家で賢かった?などなど様々な説がありますが、忘れてはいけないのが、実は健康的な生活を日々心がけていたという事です。当時は『人生50年』と言われ、今の時代からは考えられないほど短い平均寿命でした。その中で家康公は75才まで生き延びたと言われています。どんなに才に長け、武を極めたとしても、健康を害し早死にしては、天下を手にすることはできません。何よりも健康な身体が資本であると家康公は知っていたのでしょう。薬も自ら調剤するほど。また天下の将軍様にもかかわらず健康を考えた質素な食事を心がけ、その中でも『麦飯』と八丁味噌の原型とも言うべきこの地の『豆味噌』を好んでいたと言われます。ある日のこと、家臣が良かれと気を使い、白米を出したところ手を付けなかったという逸話が残っているそうです。
徳川家康公を象徴する『鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす』という唄はきっと皆さんもご存知でしょう。信長や秀吉とは違って、気長な家康公のイメージがしますが、実際は、幼少の頃などは超が付くほど短気だったそうです。
家康公と切っても切れないのが『読書』と言われています。幼少期、今川家の人質となったことがきっかけとなり竹千代(家康公の幼少期の名)は『本の虫』になっていきます。兵法に留まらず、儒学、医学等と幅広い教養を身につけました。そして本から学んだことを実践し天下を手中に治めた家康公は、今日で言う図書館を設置し家臣にも読書を推奨したそうです。
近年、戦国大名達が自ら記した手紙や様々な当時の書籍が読み解かれる中、これまで事実と思われていた説とは全く違う新説が唱えられていて、実は『関ヶ原の戦い』においても幾つかあります。実は、西軍を率いた人物は石田三成ではない。むしろ家康公と三成は元々通じていたという説。戦いのキャスティングボートを握った小早川秀秋は元から東軍で、西軍の裏切り者ではないという説。そして、実は戦いの地は関ヶ原ではなく、その西にある山中という地で、開戦からわずか2時間で勝負は決したという説等です。普遍的な事実と思われている史実ですが、後の世に勝者の陣営によって塗り替えられていたり、また読み物として脚色が加えられるという側面も否定できません。果たして、歴史の真実とは何なのか、幾多の新説が唱えられる中、様々なことに思いを馳せること、それ自体が歴史の一つの楽しみなのかもしれませんね。
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